土曜日, 2月 24, 2024

書き上げる

  気が付くと2月が終わろうとしている。1月と2月は、学生たちのプロジェクトレポートの指導をして、審査して、授業をして、講演をして、あらゆる確認、確認、確認で時間が過ぎた。もはや何が忙しかったのかも思い出せないぐらい、忙しかった。プロジェクトレポートでは、研究室の学生2名が優秀賞に選ばれた。指導の成果が形になったのは何より。

 もう1つ重要案件が残っていて、これを仕上げなければ2月は終われない。本の分担執筆だ。毎度毎度、執筆にとりかかるのがギリギリで(わざとではなく、本当に忙しいのだ)、連休だというのに、籠って作業。いつもの部屋でテレビの音声をBGMにして書いている。

 「フェイクニュースを科学する」の時も、「ディープフェイクの衝撃」の時もそうだった。執筆は孤独で苦しい作業。これが終わったら、しばらく原稿の執筆は遠慮しよう。晴れて脱稿すれば、3月は授業がないので、もう少し研究に集中できると思う。自分の研究時間のために、こいつを書き上げる。

金曜日, 2月 09, 2024

体の「声」とマインドフルネス

 研究室の学生が東大との共同研究に取り組んでいて、そのテーマが「スマートウォッチでマインドフルネスを計測する」というものだ。マインドフルネスとは瞑想の一種で、現在において起こっている経験に注意を向ける状態のこと。

 先日、共同研究の打ち合わせで、終末医療に関わる職業の人たちが燃え尽き症候群に罹りやすく、マインドフルネスのプログラムを受けることで回復するという話を聞いた。

 終末医療に関わる人たちは、死を待つ人たちに自分たちは何がしてあげられるのか、という自問自答を繰り返し、辛い感情を抱えながら、日々高度な意思決定をしていかなければならない。自分の感情を押し殺し、それに気づかないふりをして、粛々と仕事をこなしていく。その無理が続くと、燃え尽き症候群になってしまうというのだ。自分の感情に気づけない人は、相手の感情にも気づきにくくなる。結果的に、ケアする人もケアされる人も不幸な状況になるリスクがある。

 終末医療に関わる人に、マインドフルネス瞑想をしてもらうことで、自分の身体が発する「声」に意識を向けられるようになり、「自分は辛かったんだ」ということに気づくことができるようになる。自分の心の状態を客観視することで、心の悪い状態から良い状態(ウェルビーイング)へと遷移するきっかけを作ることができる。なるほどと思った。

 研究室を主催し、小さな、しかし重要な意思決定を日々している身としては、共感できる部分がある。自分がやりたいこと、学生がやりたこと、プロジェクトとしてやらなければならないこと、大学の一員としてやらなければならないこと、依頼された仕事、予算の制約、時間の制約、皆が気持ちよく学べるように・働けるように。ANDが取れない板挟みに四苦八苦、仕事量と時間のプレッシャーに翻弄されていると、どうしても自分の感情は二の次になる。自分が自分に「辛かったね」と言ってあげられる状態を作ることで、そこを乗り越えられるようになるというのは興味深い。

 マインドフルネスで自分の体の声を聞く。何があっても、自分が必ず帰って来られる唯一の場所。それは自分の身体だ。その身体が悲鳴をあげていることを無視しない。それは大事なことなのだ。

月曜日, 2月 05, 2024

マネジメントの難しさ

  東工大に着任した当時は、名大と東工大を合わせても学生数名という小さい研究室だった。その頃は、忙しいながらも自分でも手を動かす余裕も多少あったし、技術支援員のサポートもあり、研究室全体を把握したり、学生一人ひとりに費やす時間もあった。

 しかし、ここ1, 2年で研究室の学生数が大幅に増え(大変喜ばしいことだが)、研究員の数も増え、自分の仕事も激増した。もはや自分で手を動かして研究をする時間はなく、何かで詰まると、研究室が回らなくなるかもしれない、という心配が常にある。実際、昨年末に体調を崩したときは、本気でまずいと思った。

 組織の規模が小さいうちは、常識的なやり方で情報共有も意思疎通もスムーズにいくのだろうが、組織の規模が大きくなるとそうはいかない。多様な学生を伸ばしつつ、しかし研究室としての一体感も醸成しつつ、パフォーマンスも上げていく。そんなことは可能なのだろうか。

 自分が院生の頃は、強烈な個性とカリスマで学生たちを引っ張っていく先生のもとで学んだので、まったくタイプの違う自分にはまねできない。そして、時代も違う。科学者が科学だけやっていて良い時代は終わった。

 それはわかっているが、自分がやりたいのは科学だ。でも、マネジメントは必要だ。研究者としての試行錯誤が続く。